いぬごや

よくはたらくいぬです

あの日の先にあったもの

前の冬ごろにやっていた、アセクシャルとアロマンティックを題材にしたドラマを全話続けて観た。ストーリーの結末はアロマ/アセクの生き方や選択というよりは、自分が本当にやりたいこと、家を守るという強迫観念、パートナーシップをどうするか、のみっつを天秤にかけた葛藤…みたいなものを主に描いていたのかな。枠にとらわれない柔軟な関係性(そして縛りつけあわない身軽さ)があってこそ選べる道、ということなんだろうか。色々思うところはあったけどいいドラマだった。この作品を通して…でなくてもいいから、そういうラベルがあることと、そのラベルの意味が、思慮深く浸透すればいいなと思う。

恋愛感情を持たない人と日々をともにしたことは、ある。ハチがそうだった。
少し前から、ハチが私の人生に戻ってきている。

あれから私の人生もだいぶ変わり、人や猫の家族とひとつ屋根に暮らすなかで、ハチという特等席がずっと空席のままきらきら輝いていることに苦味を覚えないでもなかった。人も物も、永久欠番であるほうが神聖視を招いてしまう側面がきっとある。そういう存在が私の奥深くにあることはきちんとパートナーに話していたものの、実際のところ、やはり抱えることにカロリーを使いはする。そんな日々を送っていたら、とある春の夜にふと機が訪れた。

パチンと泡が弾けて、ハチがいない期間の人生についていた(仮)みたいなのが外れたような心地がした。果たされるかどうかもわからない「いつか」を抱えたままでは、いくら地に足をつけて生きていても、意識や心が数パーセントだけそっちに引っ張られてしまう。さぞドラマチックな再会になるだろうと思っていたけど、数年を経たくらいではまあそうもならず、まるで昨日ぶりみたいに自然に「友達」の枠に収まりあった。それでも気が遠くなるほど果てしなく感じたよ。どこかで幸せに生きていてほしいという相互の想いは、祈りであると同時に呪いでもあったので、その重い負荷がふっとなくなったことが心身を軽くさせる。後ろめたさのない単なる食事の時間、これが私とハチにとってなにより必要だった。家ではなくあかるい店で、深夜ではなく健全な食事どきに。

宝物にして飲みくだしたあの日々は、のどにつっかえたりお腹の底に重たく沈むこともなく、さらさらと溶けて私の血や肉や骨になった。もう形はない。見返すこともないし、手にとることもできない。今の暮らしとパートナーを愛する糧になったと思う。離別のとき、ハチは私に「一人でも乗り越えられるように、おまじないをかけてくれてありがとう」と言っていた。ずっと一緒にいる。誰よりもそばであなたを見てる。この言葉を撤回することなんてないし、今とこれからの私のすべてはパートナーのものだけど、私とハチの間に静かに息づくものだって決して消滅しない。

先日、旅行のお土産をくれるというハチと食事へ行った。なんでもないことを喋りながら食べた手羽元の煮つけやだし巻き卵は、罪悪感の味がすることもなく、息をのむほど特別なものでもなく、極めて普通においしく温かい。私たちが一度完全に失った「また今度」が穏やかな形で戻ってきたけど、かつてのハチが望んだ「普通」は、手に入ったんだろうか。

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