いぬごや

よくはたらくいぬです

舌でたどる記憶

去った街で焼き鳥を食べる

春まで勤めていた会社のごく近くにある、私が辞めてからできた焼き鳥屋が妙においしい。レバーがすばらしく新鮮で、つくね(串団子型ではなく五平餅型)のコリコリじゅわっとした食感がたまらなく、すべての串が絶妙な加減の塩で出てくる。薄く広げたマッシュポテトの上にいかの塩辛をのせて炙ったのや、れんこんのカクテキに桜海老を和えたのとか、一品料理もちょっと気が利いていてお酒によく合う。

その日は仕事のあとにわざわざ前職オフィスのそばまで出かけていって、懐かしい街の知らない焼き鳥屋で元同僚と飲む、というややこしいことをした。過去に勤めていた会社がある街っていうのは、一度住んだことのある街とすごく質感が近い。あのとき道を変えずにそのままその街で過ごしている、違う選択をしたほうの人生にいる自分を疑似体験したような心地になる。好ましく感慨深い気持ちになるけど、この街でお前のなにかが新しく始まることはもうないから用が済んだら帰りなさい、と言われている感じ。

元同僚とさして内容のない話で笑い、串焼きをお腹いっぱい食べ、月曜の夜だというのにお酒もよく飲んだ。今の仕事と暮らしを愛せるようになったからもうこの街に戻りたいとは思わないけど、焼き鳥屋が居抜きで入る前にあった今はなき馴染みの串カツ屋を偲んで、揚げものは頼まなかった。

いつか読んだあのお茶

うちの台所には、冷蔵ではない飲みもの全般を入れるための籠がある。毎日飲む麦茶やルイボスティーの水出しパックに、ココアやチャイラテの粉、顆粒昆布茶とかがかなり雑多に放り込まれているんだけど(コーヒーは別枠なので別途住処がある)、先日その中から貰いものだということ以外一切の覚えがないお茶の袋を発掘した。私もミイさんも手土産やちょっとしたプレゼントでよくなんらかの茶葉をもらうので、そのうちのどれかではある。

外箱を捨ててしまったあとで、銀色の袋にはラベルが貼られておらず何のお茶かまったくわからない。封を切ったらティーバッグが詰まっていて、タグにルピシアのロゴを見つけたから「少なくとも紅茶あるいはハーブティーだ」ということだけはわかったけど、茶葉の名前やフレーバーは書かれていなかった。薄紫の花びら、おそらくカモミールの真ん中の黄色いもけもけしたの、レモングラスっぽい草。熟成や焙煎をされていない、硬質で涼しげな香りがする。アイスティーを淹れようと思って籠を漁っていたので、とりあえずそれらしい飲みものを生成することはできるだろうと思って熱湯を注いだ。

その途端、想像からかけ離れたミントブルーがさっと広がる。水彩の筆を洗ったあとの色水みたいに鮮やかな色。湯を足すにつれて淡い緑に変わっていって、氷で急冷すると最終的に薄いレモンイエローになった。飲んでみると薄甘く、清涼感がありながらも輪郭がやわらかくて香り高い。昔、宮部みゆきの小説『ブレイブ・ストーリー』の中でとても好んでいた描写にこんなものがあって、それが一言一句違わず脳裏に浮かんだ。

木をくりぬいて作った器に満たした、ほんのりと甘く美味しい水
皮のパリパリした丸いパンと、ペパーミントの香りのするお茶

気に入ったのでなんとかして買い足したくなり、ルピシアオンラインショップの膨大なページを端から端まで辿ったら『マッカリヌプリ』という北海道限定フレーバーがそのハーブティーの正体だとわかった。ミイさんがあとになって「そういえば北海道に行った友達から何かもらったかも」と解像度の低いことを言う。小説で読んだあの夢みたいにおいしそうな水やお茶は、たぶんこんな味がする。

やましい晩餐

ミイさんがお酒を飲まない少食で、さほど手の込んでいない私の料理を好んでくれているので、我が家は外食頻度が低い。行くとしても近所の蕎麦屋や回転寿司みたいに、さっと食べてさっと出る店がほとんど。なので時々食べでのあるイタリアンや中華が猛烈に恋しくなる。

少し年上の、同じ名前をした友人がいる。昔ケーキ屋で一緒に働いていたときからの仲で、食べたぶんだけちゃんと太る私と異なり、私より食べるのにいつでもすらっとした草食動物のような体つきをしている。
先日、天気のいい日に川辺の街にあるイタリアンバルに行って、二人でずいぶん色んなものを平らげた。前菜盛りあわせ、ラムチョップ、レバーパテ、生牡蠣、オムレツのポルチーニ茸ソース、牛すじのラグーパスタ。舌で甘く溶ける脂やバターの熱い塩気が、脳髄をじいんと痺れさせるような重量のあるうまみ。シャルドネアイスワインがすいすい進み、食後にはデザートのタルトを食べてエスプレッソも飲んだ。ミイさんとだとこうはいかない。

彼女と恋愛関係になったことはないけど、鮮烈に記憶に焼きついているシーンが今でもたまにふっと脳裏にうかぶ。煙草の先を寄せて火を分けあった暗い砂浜。真冬の海浜公園で水筒から注いで飲んだハチミツ入りのコーヒー。雨にけぶるビニール傘の向こうに煙草のけむりが揺れていた、蛍光灯が白くひかる深夜のコンビニの駐車場。彼女はマッチで火をつけて、キッチンの換気扇の下で煙草を吸う人だった。アパートを更新することがなく引越しを重ねていて、ひとつの街にまったく居着かない。昔終電を逃して泊めてもらった家や、外国のお酒の青い瓶を窓辺に飾っていた家がいくつ前の住まいかはもうわからない。

パートナーに言えないことは誓ってなにもしていないけど、胃袋で浮気をしているような若干の後ろめたさ。ビアンなうえに友人関係が深く狭くとてもウェットなので、このあたりの心理的線引きがなかなか難しい。ミイさんの好きな無添加のドライフルーツを買って帰って、翌日は生野菜を多めに食べた。おそらくそう遠くなく、ミイさんと同じようにイタリアンが重いと感じるようになる。