いぬごや

よくはたらくいぬです

ケーキはまだおあずけの夜

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一年に一度くらい、ごく稀に高熱を出す。週末にかけてぐずぐずと体調を崩してしまって、会社を早退してハチに看病してもらって、なんだかよくわからなくなっているうちに誕生日を迎えた。


平熱がとても(本当にものすごく)低いので、発熱するとあっという間にいきものとして機能しなくなる。その日に仕事で書いていた記事が厄介だったのもあってしばらくは粘って頑張ってみたけれど、キーを叩いている指先の感触が徐々に遠くに感じだして、あーこりゃもうダメだわ、と観念して夕方に早退させてもらった。仲のいい先輩が誕生日プレゼントに持たせてくれた高級蜂蜜の紙袋を提げてふらふらと家路につき、なんとか内科に寄って薬をもらって、そのあと数時間くらいの記憶がない。気がついたらオレンジ灯だけを点けた暗い自室で、仕事帰りに家に来てくれたハチのつめたい手のひらに両頬を包み込まれていた。自転車を漕いで冷えた手のひらと高熱に火照る頬が、じゅううと音をたてて溶けあうような心地。目を開いたらベッドのそばに膝をついたハチがいて、私の熱い頬や手を撫ぜながらこっちをじっと見つめている。見たことのない目の色だった。冷えピタを貼った額にキスをして、誕生日なのにかわいそうだね、と喉を鳴らして笑った。


熱に朦朧とした視界の中、暗いリビングのむこうの台所がほの白い蛍光灯のあかりで満ちていて、そこに立ったハチが真剣そうな顔で柿を剥いている姿をぼんやりと覚えている。ふとんに沈み込んだままぼうっと眺めていたら、時々こっちを見遣るのを感じた。面倒を見ているのはいつも私のほうなのに、あの子はたまに母親みたいな顔をする。りんごジュースを買ってきてほしいとだけ頼んでいたけど、ハチはずいぶんいろんなものを買ってきてくれた。みかんゼリー。プリン。カットパイナップル。ポカリ。ゼリー飲料。今まで私がハチの看病をしたことは何度かあったものの、私がされる側になるのは初めてだったからか、あれこれベッドのまわりに並べるハチはなんだか楽しそうだった。温めたポカリをふーふー吹いて手渡されたマグカップがものすごく熱かったり、私にプリンを食べさせるときのひと口がやけに大きかったり、看病に不慣れなハチと額を寄せて笑いあった。


解熱剤が効いてきてからも胃のむかつきと鼻づまりでうまく眠れなくて、ハチに膝枕をしてもらいながら真夜中に長いこと話した。私とハチの誕生日は一週間しか離れていない。誰からもお酒やコスメなどの消えものをもらうことがほとんどだから、今年は形に残るものを贈ってほしいと言われたものの、ハチはとても物欲が薄い。アクセサリーはごく少ないお気に入りをいつも使い回しているし、実用的でないものを家に飾ることもない。今までもらって嬉しかったものは何と聞くと、付き合っていたころ私が贈った香水だという。だから、もう新しいものはいらないと。誰よりも一緒にいるのに何をあげればいいのか全然わからないなんておかしいねと、互いにマスクのふちを触りながら言いあう。欲しいものが決まったら教えるねと言っていたけど、なんとなく、ピアスを贈ろうと決めた。クリスチャンのハチはいつも華奢なクロスのネックレスをしているから、胸元には私の付け入る隙がない。この年で指輪を贈れるほど朗らかな仲でもない。なにも飾られていない平日のピアスホールを撫ぜたから、たぶん気付かれたような気がするけども。私へのプレゼントはもう決めているけど、転職したばかりで懐がさみしいからちょっと待っててねと、申し訳なさそうにしながら冷えピタを貼り替えてくれた。


来週のハチの誕生日に合わせて、ふたりのお祝いをすることにした。私が以前働いていたケーキ屋の夢みたいに美味しいショートケーキをホールで食べて、ハチのリクエストのハヤシライスを作る。この数年は私の仕事があまりに忙しかったから、まともに誕生日を祝いあうのはそういえば恋人だったとき以来だ。あの頃はきれいな花束を贈ったりもしたけれど、今は花なんかより美味しい手料理のほうがよっぽど喜ぶと知っている。


いつの間にか26年間も生きた。春に転職して、それからずっと生まれ変わったようなきもちだ。朝も夜もないような撮影現場で心身を削って働く日々は、ひどくつらいこともあったけれどやっぱりどこか嫌いになれなくて、あの3年間を無駄だったとはけして思わない。あまりに色鮮やかで、いつも死にものぐるいで駆けていて、まばゆさに目がくらむような毎日だった。それでも今の会社で物書きを生業にするようになってからは、日々の解像度があがったような気がしている。夏の雨に濡れた土と樹木のむせかえるように濃い熱気を、夕飯どきの住宅街のにおいに甘くにじむような金木犀の香りを、薄いブルーから杏色に変わっていく日没の空の淡さを、仕事帰りにゆっくりと味わう日が訪れるなんて思っていなかったから。

バースデーケーキがお預けになったので、かわりに大好きな洋梨をひとつ剥いてまるごと食べた。滴る果汁が炎症を起こした喉に少し沁みる。風邪が治ったら、先輩が贈ってくれた蜂蜜をクリームチーズトーストにかけて食べようと思う。紅茶に合わせるためのクリーミーな蜂蜜と、コーヒーに合わせるためのすっきりと澄んだ蜂蜜の詰め合わせ。とろりと白濁したほうは私の好きなブルーチーズにも合うだろうから、洋梨と合わせてデザートグラタンを作ってもいい。これからもずっと、こういうことを毎日考えていたい。