いぬごや

よくはたらくいぬです

コックピットに佇む夜

台所に華奢な椅子を置いた。座面と背もたれがネイビー色で、うちのファブリック類や赤い冷蔵庫によく合う、脚の高い折り畳み椅子。細身で邪魔にならないので、畳まず食器棚のそばに席を設けてある。

私は台所にいる時間が長い。料理の手を動かしている時間とは別で、ただそこに「いる」時間。まないたやシンクを漂白する5分間、パスタを茹でる7分間、ゆで卵を半熟にする7分40秒間、スープやカレーをひと煮立ちさせる15分間、煮物を弱火で煮込む20分間。1Kの広くもない家のなかをうろうろするのも億劫なので、そういうときはたいてい台所に留まって読み慣れた文庫本を捲る。

高いところのものを取るための踏み台を椅子がわりにして鍋の前に佇むと、ちょうど目の高さで弱火がゆらゆらと青く揺れるのが好きだ。鍋の中身がどうなっているかは見えないから、吹きこぼれたりしないように耳を澄ませる必要がある。コンロ上のオレンジの灯りをつけて、鍋のなかの水音や漂う匂いに神経を研ぎ澄ませながら紙を捲る、短くも長くもない時間。こういうときの本はあくまでおまけだから、実際のところそこまで真剣に読んではいない。だからといって薄暗い台所でブルーライトを浴びる気にもならず、どこからでも読める馴染みの短編集なんかを選ぶことが多い。深夜にふと思い立っていきなりスープを作り出す癖は、この時間を過ごしたいがためのものでもある。

といっても、そのたびに踏み台を毎度出したりしまったりするのもふつうに面倒だなと思うに至り、ようやく椅子を買った。腰掛けてみると、これまでよりもうんと視界が高い。鍋の中身も見える。家のなかの導線はほぼ完成しきったと思っていたけど、こういう細かなアップデートが加わると少し嬉しい。

この家で過ごす3度目の夏、兼、きっとまたずうっと家にいなくてはならない2度目の夏が来る。今日は珍しく晴れた。朝早くからたくさん洗濯をして、汗だくになって熱いシャワーを浴びる。ベランダ沿いのベッドに仰向けになって洗濯物越しの青空を眺める時間がしみじみ好きだけど、窓越しにそうしていたって、このところの軽いような重いような気持ちはどうにもならない。

日が暮れてから、いっとき雷をともなう大雨が降った。土と植物の青みが混ざった夕立の匂いが部屋に流れ込んできて、水の気配に少し安心する。近くに大きな川があるからか、この街は水の匂いをとても濃く感じる。

雨が降り込まないよう窓を少し開けたまま、鍋にお湯を沸かして卵を4つ茹でた。立っているととても長く感じる7分40秒間も、椅子に腰掛けていたらすぐだった。殻をむいたところに少しだけマヨネーズを絞って、台所のオレンジ灯の下で熱々をひとつ頬張る。おいしいとか言うこともなく無言で食べて、残りを醤油やみりんで味玉にして冷蔵庫にしまう。深夜にこういう脈絡のないことをするとき、座る場所があるのはすごくありがたい。昔はよく、仕事がつらいときにシンクに立って泣きながら桃を食べたりしていたから。椅子があるぶん、居場所が増えた気がした。大好きな女優さんがいつかテレビで、憩いの場である台所のことをコックピットと称していたことを思い出す。席があれば、どこへでもいけるね。