いぬごや

よくはたらくいぬです

新しい道をひらいた朝

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遠い街へひと夏の長期出張に出ていたハチが、うちから自転車で15分の距離にある家に帰ってきてしばらく経つ。不在時に借り受けていた自転車は主人のもとへ帰っていって、春ぶりに空っぽに戻った駐輪場を見ながら毎朝アパートの階段をくだっている。うちのタオルケットやクッションやクマのぬいぐるみが、砂糖とジンジャーの匂いがするハチの気配と、彼女の家の柔軟剤の残り香を思い出したかのように宿している。ハチ用のパジャマ置き場が、いつしかクローゼットの手前のほうに戻っている。ひと夏さらりと乾いていた薄水色の歯ブラシが、ほのかに水気を滴らせている。

ハチと、お別れをしないことになった。


「ちゃんとさよならする場をつくろう」と言ったとき、あまりに胸が痛くて息が苦しくて、身体が内側からふたつに引きちぎれてしまうんじゃないかと思った。言うまで、たぶん30分はゆうにかかった。目を合わせられなくて、暗がりの中の観葉植物をじっとにらんでいた。私もハチも言葉を選びすぎるくせがある。土曜の夜更けのベッドには長い長い沈黙が立ち込めていて、躊躇いつくしてようやく開いた唇が、逡巡のはてにぱくりと閉ざされる音がいやに際立つ。

最後の日を決めたとして、と何度も繰り返し言い淀んだのはハチのほう。その先が聞けないまま、さよならの季節が、月が、日にちが、色んなことに疲れきったようなふたりのやりとりの中で、徐々に形を帯びて決まっていく。最後の日はよく晴れた気持ちのいい日がいいなと思っていた。出会った頃からずっと、ハチと大事な話をするのは決まって夜更けの暗闇の中だったから。横浜の大桟橋かどこかへ出かけて、のどかな青空の下でこれからの暮らし方とかをゆっくり話して、握手なんかして、笑ってさよならを言って。たぶん、帰りの電車に揺られながら連絡先を消していたと思う。きれいな思い出の生傷が乾かないまま大切に未来へ持っていくんだとひと夏かけて決めたところだったのに、意を決したハチが重たい口を開く。

「最後の日を決めたとして、きれいな思い出にしちゃったら、それに一生縋っちゃう」とベッドのすみで膝を抱きかかえて泣いたハチが、とても、とてもちいさく見えた。でももう一緒にはいられないねと、考えたくなくてずっと逃げていたと、ものわかりのいいような声で自分に言い聞かせている。そのはてに、こわいと声を潤ませたものだから、つい口が滑った。


本当は、ほんとうはずっとこのままでいたい。ろくでもないことで笑い合って、私の作った料理を食べて、動物のきょうだいみたいに寄り添って眠りたい。ハチと本当のほんとうにさよならした世界で長い長い人生を生きていくことを思うと、不安と絶望で目の前が真っ暗になった。色んな理由があってハチと私はもう恋人に戻れないし、私は恋人が欲しいからいつかハチではない人と寄り添って過ごすようになるけど、それでも時が止まればいいのにと思った。思ったままをすべて口に出した。いつしか、ふたりとも声を上げてしがみつきあって子どもみたいに泣いていた。いやだと。こわいと。ごめんねと。

ようやく終わりが決まった、本当にさよならするんだとぼんやり理解したとき、にじむような絶望と安堵が同時に襲ってきた。かけがえのない半身を失うんだ。これ以上ないくらいもがいて苦しむんだ。でも、いつかきっと楽になる日がきて、あのときああしてよかったって心から思うんだ。たぶんこれまでの私達なら、そう信じ込んで飲みくだしていた。

でも今の私が、こんなにもいやだって言ってる。少し遠い未来の私がいくらそれを望んだとしても、今の私達が泣きわめいて拒んでる。本当にこれで合ってると思う?と疲れ切った頭でハチに聞いたら、わかんないと力なく呟いて、火照った頭を私の肩にもたせかけた。

初めて踏みとどまった。私も、ハチも。


カーテンには白い朝陽がにじみ始めていた。明るく嬉しいことは、陽のあたるところで誰とでも分け合えばいい。私とハチは、世界中でハチと私にしか見せられない暗い部分があまりに多すぎた。互いがいなければ、壊れてしまいそうになりながらもひとりで飲み込まなければいけないことがありすぎる。これまで何度も繰り返してきた拙い離別の間、傷をなめあえる相手のいない日々にひどく苦しんでいたことを今になって打ち明けあう。これからずっとあなたの傷を引き受けると、どんなにつらくても必ず私がここにいると。この先、なにがあってもとにかくそういう関係で居続けることに努めようと、泣き疲れて朦朧としたまま確かめあった。


出会った時は21歳だった。私は大学生で、ハチは専門学生で、今よりずうっと幼かった。就職して、ときに不器用に距離を置いて、色んなことにもがき苦しみながら大人になって、長い長い時間を隣で過ごした。何度も一緒にいただきますを言って、数えきれないほどの夜をひとつのふとんの中で過ごして、仕事を立派にこなして、時に身体を壊して、転職も昇進も色んなことを経験して、この秋ほとんど同時に26歳になる。

5年もかかったね。ふにゃりと力の抜けた声でそう言ったハチも、私も、泣きすぎて目がぱんぱんに腫れていた。ずいぶん遠くまで来たね。なにものなのかとっくにわからなくなってしまっていた私達の関係性に、やっと着地点が見えてきた。ままならないね、生きづらいねと疲れはてた声で笑いあう。将来もなにもかも怖くて不安で仕方ないけど、ひとりで泣かなくてもよくなった。もやがかった、それでも気が遠くなるほどの安堵を、確かに長い夜の果てにある朝陽だと思った。


私とハチは、心の柔らかいところをどんなに晒しあっていても、もう恋人ではない。たぶんそう遠くない未来、ハチではない人の隣を心地良く思う日がくる。それがひどく遠い日になったとしても、案外早く訪れたとしても、私の暗いところにある半身はいつまでもハチで、ハチの半身は私だ。静かに陽が昇りはじめていたひとけのない街をほとんどパジャマ姿のまま二人で歩いて、コンビニで買ってきたカップスープに熱湯を注いでゆっくり飲み干して、並んで歯磨きをして、動物のつがいのようにぴったり抱きあって眠った。ひたりと重なった頬や離れないように絡めあった脚が、とくとくと体温を分けあう。泣いたあとの身体は微熱を出した子どものように熱い。1ミリだって離れないように抱きあっても、いつか失うことに怯えることも、得体のしれない罪悪感を覚えることもない。


もう、大丈夫だと思った。なにもかも。きっと。