いぬごや

よくはたらくいぬです

ひとりとひとりに戻る朝

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誰よりもそばにいた人が、ひと夏、遠くへ行くことになった。

週末になるたび私の家を訪ねてきて、私の料理を食べて、動物の群れのように寄り添って眠って、長い長い時間を隣で過ごした。どれほど一緒にいたって飽きなくて、可愛くて仕方なくて、体温を分けて眠るだけですべての不安がなくなる気がする、私の半身。そう遠くない日に私と彼女は決別することが決まっていて、それをずっと互いに理解しながらそばにいる。もう、きっとその日が近い。


仮に、彼女をハチと呼ぶ。彼女は数字の8を自分の名前がわりに使うことが多い。

ハチと連れ立って内見をして、二人で家具を組み立てた家で私は暮らしている。ハチは私より背が低く手も足も小さくて、頬が雪見大福のようにもちもちと白く柔らかい。私が昔贈った香水とこの春贈ったヘアクリームを愛用していて、いつもほのかにジンジャーとお砂糖の匂いがする。私と真逆のロングスリーパーで、一度眠るとなかなか起きない。明け方になると私に腕枕をせがむ。なぜか満月の夜はきまって具合が悪いと言いながら甘えん坊になる。お菓子の好みが私と全然違って、チョコフレークやブルーベリーヨーグルト味のアイスクリームなんかの食べかけを少しずつ私の家に残していく。私の料理だと、肉じゃが、トマトとアボカドのマリネ、大根とホタテの貝柱のサラダが好き。たとえおにぎりやスクランブルエッグ程度の料理でも必ず美味しいと言いながら食べてくれる。自転車で夜の街を走るのが好きで、酔った夜には必ずふらふらと自転車を漕ぎながら、手土産にサッポロ黒ラベルの缶ビールを持って私の家にやってくる。黒ラベルはビールの中で私が一番好きな銘柄だけど、酔っ払いの自転車のカゴで揺られた缶はいつも大量に泡を噴いて私を困らせた。奔放で欲に忠実で、わがままで、それでも時々母親みたいな優しい手で私の頭を撫でる。私を子供にする。ハチはかつて私の恋人だった。


夏の間、仕事で遠くの街に行くのだという。いつしか週末の夜を必ずふたりで過ごすようになった私とハチは、あまりに一緒に居すぎて離れ方が分からなくて、これまでにもう何度も何度も不器用な離別と再会を繰り返して、そうしているうちにお互いそれなりに大人と呼べる年齢になった。次に離れる時がきたらそれは最後の決別で、互いの人生からきちんと居なくなろうと決めた。そんな矢先に数ヶ月間距離を置くことになって、私は少しほっとしている。多分、ハチも。


ハチの家の冷蔵庫を空にするために、数日間、会社帰りに毎晩家に通っては夕飯を作って一緒に食べた。葱とごま油の熱いスープにつけて食べるそうめん。大葉を巻いた鶏の照り焼き。ちりめんじゃこを和えてカリカリに焼いたピザ用チーズ。目玉焼きを乗っけた具だくさんナポリタン。一緒に食卓を囲むことにも随分慣れて、いつも私が作ってハチがお皿を洗う。ひと夏家を空ける支度は毎日少しずつ整って、冷蔵庫も空になって、最後に鍵を預かった。


鍵ひとつ、ポストの3桁の番号、それと、足を手に入れた。ハチが愛用している自転車のひと夏の主人になる。坂の多い街で育ったからか私の人生に自転車の出番はあまりなくて、大人に、というよりは「大人の身体」に成長してから初めて自転車に乗ることに。

出勤前に一旦着替えに戻った朝、約20年振りに跨がった自転車のペダルをおそるおそる踏み込んだ瞬間、ぱあっと目の前が驚く程に眩しく開けた。清涼でつめたい早朝の空気を一気に身体が浴びた。白くて明るくて涙が出そうで、ただ速くて、眠気や寂しさやわだかまりが全部細かい粒子になって消えていくようで、夢中で漕いだ。彼女の愛車はたった15分足らずで私を家まで運んでくれて、こんなにも近いところに住んでいたことを私は知らなかった。ずっと。


ひとりで過ごす部屋は、存外に広く感じる。パスタの麺やコーヒー豆、麦茶、牛乳の減るペースがわずかにゆっくりになった。はじめから一人暮らしなのにね。ハチが毎週末使っていた薄いクリーム色がかった水色の歯ブラシと、ハチ用のハンガーとパジャマをきちんと片付けられたから、このままやっていける。大切なハチと丁寧に大事にお別れするための、長い長い、支度の夏だ。