いぬごや

よくはたらくいぬです

誇りのありか

約18年前、5年1組のムードメーカーSちゃんが転校することを知ったとき。生まれて初めて湧いた感情で胸がぐちゃぐちゃになって、ひとり小学校の階段で打ちひしがれながら「あ~、私ってSちゃんが好きなのか」と早々に理解した11歳の冬からずっと、平凡なレズビアンとして生きている。

私にとっての「物心ついたとき」というのはまさにその瞬間を指していて、これを受け入れるために迷ったり葛藤したりすることはその後もなかった。男性関連のトラウマとか、ドラマチックなきっかけとかも一切ない。絵を描くこととドッジボールとアイドルが好きで、読書感想文を書くのが同級生よりちょっとうまくて、まだよくわからないけど恋愛対象は女の子。スカートやピンク色みたいなフリフリしたものは苦手だけど、だからといって男の子になりたいと思ったことはない。それくらいのごく自然な解像度。

中高生のあいだはそれなりに隠して過ごしていたけど、さして窮屈な思いをすることもなく人並みに恋愛したし(髪が短かったので『〇〇くん』と呼ばれており、そのおかげもあってすこぶる謳歌できた)大学では気の置けない友人にちょっとずつ打ち明けはじめ、とても健やかに過ごした。社会の中で日々砂嵐みたいに小さな傷を受け続けてはいるものの、幸運なことに身近で嫌な思いをしたことはない。いい人間関係に恵まれたと思う。成人祝いで二丁目デビューを果たし、酒席で恋愛相手を探すのはなんか合ってないなと気づいていつしか二丁目から離れ、まあ世間一般的かな~くらいのスパンでささやかに恋人を持ち、ハチと長い月日をともにぐずつかせたりもしつつ今に至る。

春から勤める転職先には、入社面談時点で同性パートナーがいると打ち明け(ご結婚は?と聞かれて嘘をつけずつい言ってしまった)、ありがたいことにニコニコと受け入れてもらえた。公的なパートナーシップを交わし、結婚指輪をはめた伴侶の籍に入ることが今の一番の願い。LGBTジェンダーに関する毎日のニュースに一喜一憂し、パートナーと手を繋いでお洒落をして選挙に行く……という感じで、とくに語れることのないめちゃくちゃ“普通”のビアンだけど、かねてからちょっとした悩みがある。

レインボーモチーフが好きじゃないのだ。付随してレインボーパレードとかもあんまり得意ではない。少ない同志が同じモチーフを胸に抱き、繋がりあって日々の苦悩を耐え忍ぶこと自体にはとても大きなリスペクトと憧れの念があるのに、どうにも虹のマークを100%は受け入れられないまま30歳になろうとしている。そしてそう思うことそのものが、どこかでずっと後ろめたい。

どんなにオープンで暮らしていても、やっぱり日常生活において「あ、あのLGBTの人ね」と性的指向が私のパーソナリティに先行してしまうことを恐れているんだろうか。「料理ともの書きが好きで、ライターの仕事をしていて、猫をたくさん飼っていて、そういえばパートナーが同性の人ね」くらいの優先順位であってほしくて、これが自分の代名詞になることにはすごく抵抗がある。私が大学で芸術史と映画評論を専攻していたこと、そして今の仕事がWebライターであることはセクシャルマイノリティであることに何ら関係がないし、飼い猫が3匹ともメスなのも、春と秋にやや男性的な服装(革靴+シャツ+スラックス)をするのも、私がビアンだからではない。

そういう私という「個」が全部虹色に塗りつぶされてしまうことが、ありていに言えばちょっと癪なんだと思う。レインボーフラッグを掲げた時点でそれをすべての理由にされてしまって、創作物に出てくるような、わかりやすいレズビアンキャラクターに当てはめられてしまう感覚。

ただそんな中で「プライド」の概念はずっと胸の中にある。自分がそうであることの誇り。その誇りを持つ人が世の中にたくさんいるという安堵。それをなにか可視化した形としてお守りにしたかった私に、先日とても素敵な出会いがあった。「PRIDE」のアルファベット5文字を冠した小さなブローチ。売り上げの一部がLGBTQ+支援に寄付されるらしい。外国のキャンディみたいな色と艶をしたヴィンテージガラスの上に、金色のプライドが静かに光っている。これを胸元にしれっと忍ばせることができたらどんなに心強いか。期間限定の再販を近日に控えているので、カートオープンをいまかいまかと待ちわびている。パートナーと一緒に身につけて出かけたいな。

レインボーモチーフが好きじゃない。でも「欲しくない」んじゃなくて、実は心から焦がれている。頬に虹のフェイスペイントを描いてもらってパートナーとツーショットを撮る、そんな私が少し違う世界線には存在しているかもしれないし、それがちょっと羨ましい。