いぬごや

よくはたらくいぬです

白いひかりの中に

2/24

金曜。ひと足早く課内の送別会。ライターの部下たちが行きつけの中華屋に大勢揃ってくれて、おいしい黒酢酢豚や青椒肉絲や上海焼きそばをお腹いっぱい食べながら色んな話をした。在宅の子も多いから、久々に皆の顔を見られるだけで本当に嬉しい。約30人もの部下を持つことなんて今後の人生ではもうないだろうし、その全員が朗らかに慕ってくれているなんて奇跡みたいなものだと思う。コロナ禍を経たこともあって、2019年の冬に管理職になってから今まで途方もない苦労をし続けたけど、こういう温かく穏やかな幕引きにたどり着けて心の底から安堵している。

帰路、駅ごとに別れていくたび、とくに面倒を見た部下たちがかわるがわる駆け寄ってハグしてくれた。同期ならまだしも、まさか部下とそういうコミュニケーションをとれるなんて。両手を広げてタターッと飛び込んできてくれるのが我が子みたいに可愛くて仕方ない。繕わず全力で駆け寄れる上司がいたこと、おいしいものを食べながら笑い合える同僚が大勢いたことが、あの子たちの人生にちょっとでも陽として射しますように。そういう祈りみたいな気持ちで身体じゅういっぱいになる。退職まであと二日。

2/26

日曜(土曜はずっとスプラトゥーンのサーモンラン地獄)。最終出勤日に同僚へ配る挨拶のお菓子を買いに街へ出た。差し入れや手土産を買うのは得意だけど、退職挨拶となると「小分けができて日持ちする」が大前提なのでなかなか難しい。おまけに最後の置き土産となると、ちょっとでもセンスのいいものを選びたい見栄だって出てくる。百貨店を歩き回って悩んだ挙句、自分の部下たちには銀座ウエストのドライケーキ詰め合わせ、付き合いの深いディレクター部署にはとらやの小さな羊羹詰め合わせ、特にお世話になった数名には洒落た蜂蜜の小瓶ギフトを買った。

銀座ウエストの「ヴィクトリア」という真っ赤な苺ジャムが真ん中にぽってり乗った丸いクッキーと、とらやのミニ羊羹「夜の梅」「はちみつ」は特に好きなので自分用にも単品で購入。夜の梅というからには梅味のように思えるけど、これは切り分けた断面に見える小豆が梅の花に似ているからその名をつけた、ベーシックな羊羹のことらしい。風流で愛らしい。

買い物についてきたパートナーが、昔よく通っていたという洋食屋へ連れていってくれたので一緒に昼食をとった。私はえびフライと牡蠣フライのミックスフライ定食、パートナーはポークカツレツ定食。えびも牡蠣も予想の倍以上大きく、衣サクサク身ぷりぷりでとてもおいしかった。ポークカツレツも、薄っぺらくてサクサクしたカツを想像していたら「衣がついたトンテキ」並みに分厚くてジューシーなものが出てきて驚く。

近くにパチンコ屋があるのでそういった層の客が多く、ステンドガラスの可愛らしいランプシェードの吊り下がったカウンター席に並び、おじさん達がオムライスをスプーンで一生懸命頬張っている光景はなかなかよかった。いぶし銀のコックさん数名がカウンターに囲まれた狭い厨房で猛然と調理して、次々と料理を繰り出してくる姿を見ていられるのも楽しい。凄まじい勢いで作られた料理を客は黙々と食べて、ガラスピッチャーの水をごくごくと飲み(コーヒーとかアルコールを頼んでまったりしている客はひとりもいなかった)、お腹いっぱいになってさっと退店していく潔さ。

昼のミックスフライでかなり満腹になったので、夜は蒸し茄子を白だしと梅で和えたのと、卵を落として半熟に煮た切り干し大根、にんじんとお揚げのきんぴらを作り、ついでに青梗菜としめじを蒸したのにマヨポン酢をつけて食べた。食後はこたつで紙仕事をしているパートナーの横で、お茶を飲みながら雑誌を読んだりしてのんびり過ごす。3匹の猫が全員ストーブ周辺に集っていてかわいい。転職するとフレックスタイム制になるからこれまでより帰りが遅くなると思うけど、こういう家族団欒の時間は頑張って確保したい。

2/27

月曜。退職前日。身辺整理でなんだかんだ慌ただしい。職場にいる大好きなディレクターのお姉さんとの、集大成みたいな思い出深い日になった。

誰もが知る高嶺の花みたいなポジションの人で、その威厳のある佇まいに入社したときからずっと憧れていた。最初は遠くから眺めて満足していたときもあったけど、彼女みたいに仕事ができるようになりたいしあわよくばお近づきになりたい(ガチ恋推し)と思うようになって、仕事で目をかけてくれたのをいいことに、それはそれは猛然と働いた。私をひとりのライターとしてうんと信頼してくれたし、挙句の果てに私のことを指して「私には専属がいるんで」とかいうずるい人。いつしか課長の肩書きを同じくする同志の立場まで上り詰めて、お互い、対等かつ無二の存在になれたと思う。

ふたりで最後のランチに行く約束をして、日曜に買っておいた蜂蜜ギフトを鞄に潜ませていったら、なんとお姉さんからも餞別のプレゼントを贈ってもらった。プライベートのLINEを交換して「これからはお友達に」と言ってもらえて、苦節4年がすべて報われたような気持ち。過去の自分に自慢してやりたい。退職をすごく寂しがってくれているのが悲しくも嬉しかったけど、友達としての今後があるなんて思ってもみなかった。パートナーができたことで、プライベートのすべての人間関係が一旦落ち着いてしまったけど、この年でなにか新しい関係が始まるのは嬉しいね。

夜、ディレクターや他部署の親しい人が送別会を開いてくれた。会社の中に有志運営のバー(という名の社内飲み会に使っていい小部屋。バーテンダーがいるわけではない)があって、よくそこで寿司の出前やUber eatsをとったり、おすすめ日本酒の持ち寄り会を開いたりしているので、その部屋もこれで使い納め。上司がおいしい焼き鳥とピザを買ってきてくれて、月曜だというのにかなり夜遅くまで、湿っぽくなることもなくいつもどおり賑やかに過ごした。身内の人間だけじゃなく、部署の垣根を越えてこうして色んな人が集まって席を設けてくれることに、目を細めるような心地になる。ここまで来たんだね。

2/28

火曜。いよいよ退職日。私(課長)には同じ部署に相棒(係長)がいる。二つ年上の既婚男性で、私がレズビアンだということも過去の恋愛も今のパートナーのことも、なんでも話せる親友。互いにおいしいお酒と食事、そして部下たちのことを心から愛していて、この会社における日々はすべて係長との毎日でもあった。一緒に終電まで残業した日もあれば、深夜までお酒を飲んで熱く語り合った日も、ともに頭を抱えた日も、この会社にいるうちの喜怒哀楽のほとんどすべてを共有している。

会社の近くに広い芝生の公園があって、私と係長は休憩時間によくそこへ散歩に行く。雲ひとつない春めいた陽気のなか、二人で最後の散歩に出かけて、大きな噴水の前で昼食をとった。転職を決めたとここで係長に話した日が、はるか昔のようにもつい昨日のようにも思える。引き継ぎは完璧に済ませたのに、この期に及んで何もかもの実感が追いついてこない。

色んな人に挨拶まわりをしているうちに、最後の一日はあっというまに過ぎた。自分で言うのもなんだけど、こんなに温かく見送られていった人を他に知らないぞ、と思うくらい朝から夜まで愛に満ちていた。私がいなくなることを驚き、寂しく思って泣いてくれる人が職場にいるなんて。まるで転校生みたいな気分(転校したことないけど)。

食玩やフィギュア、部下からもらった手紙を飾っていたデスクをまっさらに片付けて、ペン立てとマグカップと膝かけをリュックに詰め込み、大好きな同僚に手を振って見送られながら四年過ごしたオフィスをあとにした。餞別の贈り物をたくさん抱えているから今だけは寂しくない。しんどいこともあったけど大切な居場所。人らしい暮らしなんてまるでできなかった前職からここに来て、ライターの管理職という風変わりな立場で毎日を過ごして、血の一滴や細胞のひとつぶまですっかり生まれ変わった。明日からもうここに来ない。

夜はあらゆる苦楽をともにした、係長をはじめとする四人の管理チームで最後の宴を開いてもらった。といっても、近日我が家に集まって手巻き寿司を食べる約束をしているので、まったくもって今生の別れではない。スーパーでコロッケや甘酢肉団子なんかのお惣菜と缶ビールを買い込んで、いつもの延長線上にあるさして特別感のない会話を交わす。そのうちの一人、妹のように可愛がっていた腹心の部下に、私がもっとも大切にしている本のひとつでもある『スプートニクの恋人』をプレゼントした。読み終えたら感想を語りあうこともできる。こうやってずっと縁が途切れず繋がっていくといい。