いぬごや

よくはたらくいぬです

普通じゃないと知った夜

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自分のことを、かなり「普通」だと思っていた。


サラリーマンと専業主婦の両親に育てられて、特にぐれたりすれたりもせずまっとうに大人になった。朝起きて夜に眠る会社員で、庶民的な街の庶民的な家賃のアパートに住んで、むずかしくない家庭料理をつくったり、派手でも個性的でもない服装と化粧をそれなりに楽しんだり、八百屋で白菜が100円で買えると足取りが軽くなって、たまに花屋で買ったワンコイン以下の花を飾ったりしながらつつましく暮らしている。


クリスマスのイルミネーションやお花見のお弁当、夏祭りのりんご飴、誕生日のホールケーキ、そういうごく普通のものを愛してきた。一緒に水族館でイルカを見て、海辺をサンダルで歩いてかき氷を食べた夏もあった。神社の夏祭りでお好み焼きを分けあって缶ビールを飲んで、紅葉を見ながら写真を撮って、誕生日にはショートケーキに立てたロウソクの火を同時に吹き消した。大きなクマのぬいぐるみをもらって、私は花束と香水を贈った。私の作ったカレーやお味噌汁やナポリタンやあの子の作ったグラタンを食べて、銭湯に行ってフルーツ牛乳を飲んで、互いの家で揃えたシャンプーで洗った髪を乾かしあって、ユニクロのスウェットを着て一緒に眠って。


贅沢しないし、目立つこともしない。四季をいとおしんで1Kの部屋に息づく庶民的な暮らしをかわいがって、ちょっと欠けてたし名前もついていなかったけど、こんなにも普通に幸せだった。でもやっぱりどうしたって、ハチにとって私たちは「普通」ではなかった。


彼氏ができたと。「普通になれる最後のチャンスだと思った」と温度が抜け落ちた声を絞りだしたハチを、たぶん、ひどく冷たい目で見つめてしまった。あんなにつめたい視線や声をあの子にぶつける日が来るなんて思いもしなかった。ついこのあいだ誕生日に贈られたばかりの、マスタード色とトルコブルーに艶めくペアの漆塗りのおわんと、昨夏出張中のハチが私に買ってくれていた水族館のシャチの置きもの、引越し祝い兼誕生日プレゼントのつめあわせに入っていたアナグマの絵が可愛いハンドクリームの缶、小さな苺柄のマスキングテープ、うすいクリーム色の柄の歯ブラシ、毎週洗濯していたハチ用のパジャマ、そんなようなものたちが家から姿を消した。ハチに押しつけて持って帰れと言って、あんなに我が家に馴染んでいたいとおしいものたちなのに、私が家から追い出した。火がついたように取り乱していやだと声をあげて泣き出すハチが、自分と同じくらい傷つけばいいと確かに思ってしまった。何年経ったってどれだけ一緒にいたって、私はしっかりと女だし、ハチも女で、ほそい鎖骨の間には小さな十字架が揺れていた。


夏頃からずうっと、一緒に行こうねと約束していた店にようやくふたりで足を運んだ夜だった。私の残業が思いがけず長引いてラストオーダーを過ぎてしまったのに、また今度来ればいいよとたいして気にもせずハチは笑った。せっかくだからお洒落な店で少し飲もうと気を取り直して、近くのバルで一杯だけ頼んだピルスナーは燻製ハムによく合って美味しかったし、終電に乗って家のそばまで帰ってきたら、馴染みのサイゼリヤがいつも通り私たちを退屈そうに受け入れてくれた。窓側の席でポトフと小海老のサラダを半分こして、100円のグラスワインと軽いプラスチックのジョッキに入ったビールを舐めながら夜更けまで尽きずに喋って、その帰路のことだったから。

もうあのお店にいけないね。私があと30分早く会社を出てたら一緒に行けたのにね。秋に酉の市の出店でじゃがバターを食べたかったハチがお腹いっぱいで買うのを諦めたときから、今度うちでじゃがいもをふかしてじゃがバターパーティーをしようと約束していたけど、それももうできないね。いつもの銭湯だってもう一緒に行けない。今度作るねって約束してた参鶏湯やハンバーグだってあなたはもう食べられないし、同じふとんで寄り添って眠るのだって、もう今夜で最後だよ。そんなようなことを淀みなく言った。すべての「今度」が驚くほど静かにさらさらと消えていくのが信じられなくて、一度黙ると喪失と怒りで息ができなくなってしまうと思った。自分がほんとうに怒るとどんな行動に出る人間なのかを、こんな歳になるまで知らなかった。ハチは、私と同じくらい泣いていた。ハチとのLINEのトーク画面を開いたiPhoneを小さな手に押しつけて、自分では押せないブロックボタンを押させた。設定画面の中に並ぶ、恋人だった頃につくったアルバムのサムネイルを見つめながら、ボタンを押すまでの長い長い間、ハチは唇を噛みしめながら静かにiPhoneのふちを撫でていた。


終わりの日を決めた。その日が本当にふたりの終わりになるかどうかはまだわからない。ただ、雨が降ったり曇ったりせず、気持ちよく晴れたらいいなと思う。

我が家にすっかり馴染んでいたハチの気配が強引に拭いとられて、かすかに、とてもかすかに香水や柔軟剤の名残が息づいている。身体の内側をえぐりとられたままのような心地で、フローリングをクイックルワイパーで拭いたり、駅の花屋で買った250円のチューリップを飾ったり、カレーに乗せる目玉焼きを焼いたりしている。

こんなにも普通なのに。