いぬごや

よくはたらくいぬです

水辺の夜

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川のそばを歩きながら、夜がくるのを眺めるのが好きだ。真っ黒な水面が鈍色の鱗みたいにてらてらと光りだすのを見ていると、他人事のように俯瞰して思考を整理できる。一人で考えたり悩んだりするとき、私はたいてい水辺にいる。

この秋、地元の幼馴染が式を挙げる。会場に飾るウェルカムボードを描くことになって、先日夫婦とオンラインで打ち合わせをした。直接会ったことのない旦那さんと挨拶をして、あちらの緊張をほぐすために雑談をしてから「描いてほしいモチーフは?」「会場にはどんなお花を飾るの?」「どんなドレスを着るの?」みたいなことをひととおり聞いて、素材や納期の話をさくさく進めていく。Webカメラに向かって朗らかに手を振って通話を終えたとき、ああ私は今あきらかに、お祝いの気持ちでいっぱいの幼馴染ではなく「元制作ディレクター」として打ち合わせを回したな…と気づいた。胃の底が重たい。初対面の旦那さんがどんな顔をしていたかなんて、もうまったく覚えていない。

結婚という概念を、心からいいなあと思う。結婚式もべつに疎んでいるわけではない。むしろ文化として憧れる。だからこそときに、羨ましさのあまり絶望に近い感情すら抱くこともある。だって私はそこに立てない。同じことが許されていない。ここであんまりこういう話を書いたことはなかったけど、同性と添い遂げることについて悩む時間が、このところとみに増えた。もういい年だし、近しい友達は皆結婚していくし、一人の食卓は普通に寂しいし。

血縁者が片手とちょっとで数えられる一人っ子に生まれ育って、さしたる悩みもなく(本当にどうかと思うくらい悩まなかった)自分が同性愛者であることを受け入れたものの、親には案の定拒絶されて、ならもう一緒にいないほうがいいなと思って実家を出た。幸い仕事が楽しいと思えたので力のかぎり頑張ってみたら、この年で望めるものとしては十分な立場が手に入った。「好き」と「得意」を両立できる仕事をして、毎日不安なくごはんを食べられている。でも人づきあいはいつも順風満帆とはいかなくて、傷つけたり傷ついたりを繰り返しているけど、それに関しては性的指向にかかわらず皆そんなもんだと思う。

そういうふうに生きて色んな経験や肩書を得たものの、それでもなお一番欲しいものが間違いなく「家族」だと気づいてしまったときは、さすがにどうしようもなさすぎて「そっか~」と仰け反りそうにすらなった。ペンギンは生まれ変わらないと空を飛べない。でもどうしても、マジョリティの真似でもいいから近いところに行きたくて、意を決して似たようなことをした。これを世の中では婚活と呼ぶはずだ。私も相手も女だから、決してそうはなれないけど。

かくして、そういう枠におさまった。私と同じような人と出会って、何十時間もの気が遠くなるような話し合いを経て、何週間もの覚悟を要した約束を結んだら、その日を境にパチンとスイッチが切り替わったようにものの見え方が変わった。いよいよ適当に生きてはいられなくなったし、7年ほどなかったことにしていた親との色々にまた遠からず向き合わなければならないけど、代わりにずいぶんとたくさんのノイズが消えた。「婚約」なんて言うと悪い冗談みたいだなあと思う俯瞰の自分もいる。自分たちの頑張りにかかわらず、その先に果たされるものがそもそも存在しない致命的なむなしさが、そのうち薄まるんだろうか。

水辺を歩いても答えが出ない悩みが、たぶんたくさん増える。一人で考えるのはもうやめにしたいね。台風でにわかに水位の増した川を見ていたら、すごく遠くに来たような気持ちになった。